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蛸の松とは
再現された「蛸の松」
中之島の「蛸の松」
昔々の「蛸の松」
『久留米藩大阪蔵屋敷絵図』にみる「蛸の松」
錦絵にみる「蛸の松」
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「蛸の松」とは
TAKO NO MATSU : The story of now and ancient times.
「蛸の松」の由来
中之島は、大阪落城後に豪商・淀屋与三郎によって開発されたのが始まりです。江戸時代には諸国物産取引の中心地としての地位を築き、諸大名の蔵屋敷が多く設けられ、“天下の台所”にふさわしい活況を呈していました。立ち並んだ蔵屋敷前には、各藩自慢の松が植えられ、人々は屋敷の白壁と川面に映る松の景色を楽しんだといわれています。なかでも、慶長年間(1596〜1615)に当時の広島藩主・福島政則が植えたと伝えられる黒松は、枝振りが蛸の泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松」と名付けられ、名所の一つとして親しまれていました。

文化3年(1806)の大阪図

「天下の台所」としての拠点であった蔵屋敷。「蛸の松」と蔵屋敷の様子が大阪歴史博物館に模型で、展示されています。




久留米藩大阪蔵屋敷と「蛸の松」
「蛸の松」が川に面して四方に枝を張っていた様子が、『久留米藩大阪蔵屋敷絵図』の屏風絵でもうかがい知ることができます。久留米藩蔵屋敷は南北約150m・東西約100mという広大な敷地をもっていました。その門前にあった「蛸の松」は、月の夕べや雪の朝の眺めがことのほか美しく、藩でも神木として大切に扱われていました。近年、周辺地域の発掘調査が進んでおり、絵図でしか、うかがうことができなかった久留米藩と広島藩の敷地割りが、遺構として確認されました。現在、久留米藩蔵屋敷跡には、大阪大学中ノ島センターが建てられています。

 

久留米藩と広島藩の敷地境にあった石垣列と溝の遺構。この敷地境は明治時代以降、大阪病院と大阪師範学校との境界として引き継がれていたことが、調査によって判明しました。


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